由良台場跡の画像


由良台場跡 -ゆらだいばあと-

国史跡(昭和63年7月27日指定)

所在地 : 北栄町由良宿1457
      JR山陰本線「由良(コナン)」駅より北へ徒歩20分 


由良に誕生

 由良台場は江戸時代末の文久4年(1864年)、外国船の打ち払いと海岸防衛のために築造されたフランス式砲台場です。
 鳥取藩で台場が築造されたのは、境(現 境港市)、淀江(現 米子市)、赤崎(旧 赤碕町、現 琴浦町)、橋津(現 湯梨浜町)、浜坂(現 鳥取市)、賀露(現 鳥取市)、浦富(現 岩美町)などです。由良台場は山陰地方で初めて築造されました。

尽力した人びと

 文久3年(1863年)、瀬戸村(北栄町瀬戸)の大庄屋:武信佐五右衛門家の養子である武信潤太郎の総指揮のもと、築造が始まりました。当時、財政に困窮していた鳥取藩からの出資金はなく、資金面は武信家を中心とした献金でまかなわれ、労働力には16歳~50歳の地元農民、延べ7万5千人動員されました。
 土は鍛治山(県運転免許試験場の跡地付近)と清水山(大栄中学校付近)、芝は干目野(県園芸試験場付近)より運び込んだと伝えられています。完成された台場では、地域の農民で結成した農兵隊がその訓練に精を出したといわれています。

構造と姿

 今でも当時の姿をほぼ保っているその構造は、積み上げた砂の上に粘土をふき、さらにそこに芝を植え付けたものです。全景は長方形の角を落としたような六角形をしており、西洋の築城技術を用いて稜堡式の台場として築城されました。
 東西125m、南北83m、周囲400m、高さ4.5m、面積約1万2千平方メートルの台形で、南側の入口は一文字虎口状になっています。

*稜堡式:要塞の突角部。16~18世紀、ヨーロッパで大砲による攻防に備えて発達。城全体は星形をなし、函館の五稜郭はその一種。稜堡式を応用した台場が多くある。

お台場 昔×今

 当初、六尾(現、北栄町六尾)にある反射炉で鋳造された大砲4門(大栄町誌では7門)が配置されましたが、一度も実戦に使われることなくそのまま廃棄、改鋳されました。それと同時に台場もその役目を失い、大正年間に当時の由良町に払い下げられました。
 現在は憩いの広場として、運動会、遠足やイベントなどに利用されています。(注:利用に際しては事前に由良台場使用許可申請書の提出が必要です)
 そしてすぐ隣には遊具のある子供広場、テニスコートやキャンプ場のあるお台場公園、道の駅:大栄、青山剛昌ふるさと館があり、週末などは町外・国外からの人も多くにぎわっています。

【関連文化財】

*六尾反射炉跡(町指定文化財)は、西洋の技術と日本の伝統技術を融合させて建造されました。江戸末期から明治にかけて日本で起こった近代化を象徴する貴重な遺構です。現在は土塁の一部が見られる状況ですが、反射炉が現存する韮山反射炉(伊豆の国市)などは、明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されています。

添付ファイル 参考リンク等

由良台場使用許可申請書はこちら(EXCEL版 / PDF版