今回は「由良台場跡」について紹介するわよ。


 由良台場は、鳥取藩の年貢米を収める藩倉が置かれた由良の街から、約600mの位置の由良川河口右岸にあるのよ。この台場は、高島 秋帆(たかしま しゅうはん)らに西洋砲術を学んだ武信 潤太郎(たけのぶ じゅんたろう)が、フランス式の築城法をもとに設計、指揮のもと、鳥取藩で最初に築造されたものなの。

 建設にあたっては、1863(文久3)年6月から、男女問わず16歳から50歳までの農民がの方が延べ7万5千人余りが動員されたとされ、翌年2月には完成しているのよ。盛り砂は台場の東側から採取し、粘土は鍛冶山(現在の出会いの広場)や清水山(現在の由良駅南東)から、芝生は六尾からもっこに担いで運搬されたの。財政難の鳥取藩からの出資金はなく、その人夫賃等の費用は、中・大庄屋、豪農からの献金でまかなわれたと伝えられているのよ。

 台場内側は三段になっていて、砲座を中段から上段にかけて設け、そこに4門の大砲を設置し、主に農兵が守りを固めたとされていて、そこに置かれた大砲は、台場から南東約1.5Kmの位置にあった六尾反射炉(むつおはんしゃろ)製造されたものだったのよ。

 

 そして、由良台場は当時の原形を留めている全国的にも貴重な存在で、近代化遺産としても評価の高いことから、1988(昭和63)年に国指定史跡に指定されたのよ。

 

台場しかこ