正墻適処(しょうがきてきしょ)
藩公が惚れ込んだ才人は、優れた人材を育てた。
儒学をはじめ、様々な学問を修めた正墻適処は、嘉永2年(1849)姫路仁壽参考山校の教務を統括。さらに嘉永6年(1853)、四国松山藩に召し抱えられました。
鳥取藩主池田慶徳は、適処の才能を惜しみ、呼び戻して藩の儒者の列に加えました。適処は、藩の学制について多くの改革を加えながら、自邸内に私塾「研志塾」を開き、藩内外から多くの学生を集めました。幕末には、藩主慶徳公を助けて、明治維新の実現に奔走しました。
56歳の時、一切の官職を辞めて、松神村に移住。隆光寺本堂で「研志塾」を再開し、地方子弟を指導しながら、詩画文墨を楽しみました。「研志塾」は、優れた人材を輩出し、地方の発展に貢献しました。