茶臼山の画像

茶臼山 -ちゃうすやま-


所在地 : 北栄町国坂・田井周辺
(JR山陰本線「しもほうじょう」から北東へ徒歩20分・または日交バス北条線「国坂」下車すぐ)


名前の由来

 北栄町の東部、砂丘地と平野地にまたがる南北に長い丘陵で、標高は93.9m。『国坂山』の別名もあり、古くは茶磨山と記されていました。かつて平山の無木山は一円の茶畑で、このお茶が国内に広がっていったことから、伯耆(ほうき)の茶林といわれました。茶磨山の名もそこから来るのかも知れません。

むかしばなし

 茶臼山にまつわる昔話があります。鷲峰山(しゅうぼうさん:鳥取市鹿野町)と大山(だいせん:大山町・米子市)の背くらべのお話です。簡単に紹介しましょう。
 『むかしむかし、鷲峰山と大山が背くらべをしました。低くて負けた大山はくやしくて仕方がありません。そこで鉄の大杓子を持ってきて、鷲峰山の頭を削り取ってしまいました。そのときの削り取った土がこの茶臼山となったのです。』
 東の鷲峰山と西の大山、そして真ん中の茶臼山。スケールの大きな楽しい昔話ですね。

茶臼山城

 平地に独立していること、山陰道(伯耆往来)がすぐ北側を通っていること、山頂から日本海を一望できることから、戦国時代には『茶臼山城』という城郭がありました。『伯耆民談記』には、増田玄蕃允(ますだげんばのじょう)、在沢右京亮(ありさわうきょうのすけ)の居城であったものが、永正年間 (1504年~1521年)に南条氏により落城、焼失されたと記されています。
 天正8年(1580年)頃には、毛利氏の武将吉川元春の子:元長が陣をおいたと伝えられてます。年代不詳ですが、亀井家文書の羽柴秀吉宛書状に「吉川茶臼山着陣」と記されていることからも、茶臼山に吉川勢が備えていたと考えられます。
 大規模な堀切や土橋、虎口状の遺構も確認されており、これらの遺構は吉川勢によるものとみられ、山陰道やはるか海上にも睨みをきかせていたようです。
 江戸時代、池田氏が因幡・伯耆国に移ってきた際には、居城建設の候補地にもその名をあげたということです。

 南北に続く尾根筋には前方後円墳・円墳・方墳などが点在しています。また、巨石が露出している場所もみられることから、何らかの祭祀施設が存在した可能性も考えられています。また、北側の山頂部分には天守台状の高まりが残されており、郭の跡も確認されています。

国坂神社

 茶臼山の北側、山陰道のかたわらに『国坂神社』が鎮座しています。
 この神社は、平安時代初期の延喜年間に整備された『延喜式』という法典の『神名帳』に記載されており、『式内社』として格式の高い神社と位置付けられていました。伯耆国(鳥取県中・西部)にはこの式内社が6社あり、国坂神社が4番目に記載されていることから伯耆四の宮とされ、四の宮さんとして親しまれてきました。
 神社の境内にはスダジイ、カクレミノの群落が見られ、モミ、イチョウ、クロマツの巨木が混交するこれらの自然植生は、地域住民によって守られてきた財産のひとつであるといえるでしょう。この社叢の裏にはスダジイの順林があり、春先の新芽の季節には美しく、緑と自然の大切さを教えてくれます。
 この国坂神社の社叢は北栄町指定文化財となっています。